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細窪地蔵尊の由来

サイクルスポーツセンターの大駐車場北側の一角に石仏(細窪地蔵尊)が祭られています。 道路を行き交う人たちを見守っているお地蔵様の由来は、大変に興味深く、日本競輪学校及び日本サイクルスポーツセンターの拡大な施設がある土地のその昔はどうなっていたのか?
地蔵尊の由来をみて皆さん想像してみて下さい。


細窪地蔵から見たCSC          周りには花木が植えられている

細窪地蔵尊の由来

中伊豆と東海岸宇佐美を結ぶ交通路は、三つあった。
大仁町三福より田原野亀石を経て、宇佐美に出るもの、中伊豆町より巣雲山の南を経て宇佐美に至るものであるが、何処も山間が狭く急坂で難路であった。
この二路に比べて大野路は、平坦で山も浅く開け周囲が採草地であったので、地元民が常に山に入り道路の手入れも出来、他の二つの路より恵まれ利用されていた。
戦国時代より東海岸と中伊豆との関連は強く古書にも記されている。
武士だけでなく旅人や近所の住人、ことに大野にとっては生活の産業道路であった。
古くから大野は肥沃な土地に恵まれ穀物、野菜、木炭の産地で知られ、生産される産物は、宇佐美港より遠く江戸まで運び出されていた。
これを裏付けるものとして大野神社前に

    奉納     江戸鉄包州    九屋源兵衛
            当地世話人    後藤七左郎左衛門
                        若者中
                        商人中
の燈籠が奉納されている。
これは今に残る唯一の物証である。
九屋源兵衛は江戸の問屋。商人中は地元の仲買人。若中者は、物を運んだ馬子達である。
武士、商人、旅人、住人等多くの人が峠の道安泰を願い祈り花を手向けた。
地蔵尊も行き通う人から愛され親しまれ尊まれてきたのが、細窪地蔵尊である。
地蔵建立の由来は、定かでなく言い伝えと推測によるより他にないのである。
伝説としては、一人の武士が急病により倒れているところを通りがかりの坊さんに助けられ、その武士が建てたと言う。
また、大きな商人が馬子と荷物の安全を祈って建てたとも言われる。
また、郷土の者が数多く行き通う人の安全を祈って建てたとも考えられる。
人家を遠く離れた山の中、峠通いの中間に親しまれ愛され功徳を施した石佛、それが細窪地蔵尊である。
そこは、開けた芝生があり大野三大名松(樹齢五~六百年位、大野神社前、大野入口、智泉院)(何れも松食虫による枯死)に次ぐ老木細窪の松や水呑物もあって馬に水を与えられる絶好の休み処であった。
多くの人に親しまれた細窪地蔵尊の祭典も七月二十四日と定められ、中伊豆地区は勿論遠く東海岸より多くの人が集まり回り舞台付きの小屋が建てられたり草角力、賭博場、出店等が集まり盛大に行われ、賭博場等は大野口より各所に開かれ賑やかなものであった。
江戸末期より明治初頭に茅野、長者ヶ原、浮橋等に入植者が入り道路事情が変わり唯一の連絡道であった細窪路も寂氏寂れ、地蔵も明治の初め定林寺に移され祀られることになった。
移された後は、八月四日、百八燈と言い他の地蔵尊と一緒にに若者が祀り手燈籠を灯し老婆が念佛を唱えることが今日まで続いている。
その経費は、大野区より上げられた細窪地蔵尊の燈明代と細窪地蔵尊の基金として部落民に貸付をし、その金利を当てていたが、これも昭和十年代、時代に添わないと整理されたが祭りは今も尚続いている。
今に残るのは功徳あらたかであった地蔵と八月四日の祭りと七月二十四日は、細窪地蔵尊の日で田の草をとるものでわないと言うことのみである。


   細窪地蔵尊                      定林寺                  大野神社

細窪地蔵尊の縁起?

 その昔開かれていた細窪地蔵尊の祭典は、大変盛大なものであり、特に賭博場が各所に開かれ賑わっていました。そのため、賭博場を見つめていたお地蔵様は、賭け事にご利益があるとも言われています。毎月24日が地蔵尊の例祭日。サイクルスポーツセンターでは、お花を添えてお参りしています。
 皆さんも賭け事の前に細窪地蔵尊をお祈りしてみてはいかがですか?